本文中にある褐色字は、書籍ならばルビを振りたい語句です。マウスポインタを合わせて下さい。ツールチップでその読みが表示されます 〔必ずしもその漢字本来の読みではないことに注意〕。
午後の見回り 〔田舎編〕
ふと我に返った。
一瞬まえまでどこで何をしていたのか思い出せない。
だが、そんなことはどうでもいい。
おれは、今、ここにいる。
この場所には見覚えがあるし、身体に触れる感触もなじみのもの……。
もちろん、いつも見回りの途中で昼のねぐらにしている茂みの中だ。
隣の茂みの影はさっきよりも長いが、空気はまだ辛うじて暖かい。
とはいえ、明るい時間がだいぶ短くなってきたようだ。……なんとなくそんな気がする。
あまりよく覚えてないが、以前はこの茂みにもっと長くいられた……。そう……たしかに、ここから出ていって見回りの続きをやることを全身が嫌がっていたものだった。重たい暑さが背中をたたき、ねばりつく空気が全ての脚に絡みついてくる……そんな暖域に出て行くことを……。
いまは違う。
体が自然に動きだし、温みを求めて前進すると、いつもどおりの伸びをした。
背中が腹側に大きく曲がり、両方の前脚が大地に接する。両手に最大級の活力がみなぎり、爪が前にとび出してくる。
なかなかいい。
見回りの再開だ。
空気の匂いをかぐ。
どこかでまた二本脚たちが何かを燃やしている。かれらはなぜか燃やすことが大好きだ。
べつに悪いことではない……食べものを燃やすのなら……。ヌルヌルやカタマリを焼いた匂いはたまらない。遠くからでもふらふらと惹きつけられる。上首尾に体が動いて、うまくありつけたときは……至福だ。毛が喉に引っかからないのもいい。
だが、かれらは何でもかんでも燃やす。吐き気を催させるような匂いをまき散らすことだってある……。
だが、そんなことは、今どうでもいい。
この匂いは食べものじゃない。……生えものだ。
調べにいくには及ばない。
いつもどおりのステップを踏んでいく。
茂みの列を抜け出した。遠目の利く縦帯だ。その片側は、整然と生えものが植えられた広場……。もちろん二本脚たちのやった仕事だ。ときどき採って棲みかに運んでいくのを見かける。かれらはしょっちゅうそれを食べているらしい。
おれたちだって生えものを口にしないわけじゃない。でもそれは、腹の流れを整えるための非常食だ。食べるのは具合の芳しくないときだけ……。
二本脚たちはいつも腹の調子が悪いらしい。あの大きな体をたった二本の脚で支えていかなけりゃならないのだから、無理もないことだろう。
ある巨大な棲みかの脇……いつもの場所に一匹の顔長が寝ている。あの種族はみな囚われものだ。決まって首輪をはめられていて、それが頑丈なヒモで繋がれている。昼も夜もそんな窮状だ。それなのに、あいつらはあまり不服そうじゃない。棲みかの二本脚が外に出てくると全身で喜ぶ。大声でわめきながら駆けずり回るやつもいる。
今こちらに気づき、興味なさげにまた丸くなったあいつは、まだしもおとなしいほうだ。
たいていの顔長はおれたちを嫌っている。勝手きままにどこへでも出向いていける、我が種族を憎んでいる……。ちょっと目を細めると、そのくすぶった情念が揺らめいているのが見える。まるで群れをなした微細な羽虫みたいだ。
なかには、その羽虫の群れが辺り一帯に広がって、最寄りの棲みか全体を覆っている、なんてやつもいる。そのての顔長はきわめて危険だ。おれは間違ってもそういうやつには近づかない。
そこの棲みかの二本脚たちは、まったく同じ色合いの羽虫の群れをそれぞれの身にまとっている……。
だが、そんなことは、今どうでもいい。
所定の場所で仰向けに転がる。
片方の大地からもう一方の大地まで、決まった回数だけ全身を半回しにする。
背中に憑いていたものが落ち、かわりに浮力が充填される。
起き上がって背を丸めると、ふんわりと毛が逆立った。
林の反対側の端に一匹の同類がいる。上半分が暗色で下半分が明色の、まるでヌルヌルみたいなやつだ。
やや近いところにもう一匹あらわれた。少し前から感じとっていたとおり、やはり三色毛の美形だった。不思議な気分になる……。
体ごと憶えているわけではないが……いつだったか、おれは、耳先から尻尾まで熱くなって、あの美形のあとを追いかけ回したことが……あるような気がするのだ。
今のおれには相応しくない狂態だが、誰かがそうやっている情景がぼんやりと視野に重なってくる……。
おれ自身を見ることはできないから、それは他の荒手の姿が内眼に焼き付いたものだろう。ほかの同類が以前そうやったことが確かなのだったら、おれ自身そうやったことがあったとしても、まったく不思議ではない……。
だが、そんなことは、どうでもいい。
荒手だろうと美形だろうと、同類であることに変わりはない。
同類とはできるだけ関わり合わないほうがいい。面倒なことは、ごめんだ。
三色毛を視界から消すために、体は脇の方へと移動していった。ちょうど心地よい幅の崖に挟まれた、浅くて細長い縦帯だ。この時季、みずは流れていない。
内眼を前方へ向けて、誰かと鉢合わせしないことを確認する……。だいじょうぶだ。おれが向こう側に抜けるまでは、誰もここには入ってこない……。
おれはしっかりと身を沈ませると、緩慢な足どりで前進していった………。
2008. 10. 18 了


