本文中にある褐色字は、書籍ならばルビを振りたい語句です。マウスポインタを合わせて下さい。ツールチップでその読みが表示されます 〔必ずしもその漢字本来の読みではないことに注意〕。
見覚えのない街
ふと気がつくと見覚えのない街を歩いていた。
センターラインのない幅の狭い道路なのに、その両側に高い街路樹が並んでいる。間隔はそれぞれ20メートルくらいか……。一見して有りふれた木であると解るのに、なぜか樹種を思い出すことができない。
幅5メートルほどの道は緩やかにカーブして、先の方は片側の樹列に隠されていた。反対側の幹の連なりはだんだんと不明瞭になり、遠くの方では暗褐色の壁のようにのっぺりと視界を阻んでいる。遠近法どおりに小さくなっていく樹冠は、それでも、異様なまでに高い位置に葉叢をなしている。それはまるで……緑の崖だ。
どうやら住宅街のようだった……。
大寺院の柱か神社の鳥居のように太い樹幹の向こう側に、かなりの距離を置いて、平屋かせいぜい2階建ての建物が不規則に連なっている。見たところ家々はごく普通の大きさで、巨大な街路樹とはどこか不釣り合いな感じがした。
一軒の店に目が止まった。
さほど広くない間口にガラス戸が並んでいて、暗い内部の様子が辛うじて見て取れる。豆腐屋か、何かそんな類の食べものを売る店……。
薄汚れたガラス戸の一枚に文字が書かれている。建物 〔2階建てで上階は住居になっているらしい〕 のそでには看板も掛かっている。
だが、なぜかそれが読めないのだ。記されていることの意味は解る……。けれど、単語として音にすることができないのである。
自分がふだん使っている言語には違いない。だから、たぶん……まだ教わっていない言葉なのだろう。
そもそも、ここはどこなのだろうか?
見覚えがない場所であることは確かだ。それは間違いない。
しかし、かつて訪れたことのある……それどころか、何度も来たことのある街……。というよりも、以前この近くに住んでいて、日常的に通っていた界隈であるという奇妙な確信があった。
にもかかわらず、記憶はまったく茫漠としている。まるで、目覚める直前に見ていた夢をどうしても思い出すことができない時のような、じれったさと哀しさが相半ばした感覚にとらわれていく。
もう一つ奇妙なことがあった。
この辺りをよく行き来したという直感はあるのに、そのとき自分の足で動き回っていたという体感がないのだ。あたかも宙に浮くように、何者かに運ばれるようにして移動していたような、とても朧気な感覚記憶……。そして、自分が行きたい方へ行けないという、得も言われぬ不満と、無力感……。
その感情の出所を捉えようとしているうちに、いつしか別の場所に来ていた。
住宅街の中だった。
道幅はあまり変わらない。
だが高い木は見当たらず、ブロック塀や垣根が道ばたに接して続いている。
それぞれの区画には庭があって、雑然と植物が植わっている。
所々に家屋の屋根が覗いている……。
ひと気はない。
これまで進んできた方向に歩を運んでいった。
先の方に見えてきた、ここと交差する道路に近づいていく。少し広い通りのようだ。三面張りの川が平行して走っているらしく、小さな橋がその向こうに掛かっている。なぜか欄干がついていない。……。
更に近づいていくにつれ、身に染みついた恐怖感が高まってきた。片側に曲がってすぐのところに、いつも大きくて恐ろしいあれが駐まっているからだ。
もちろん、そちらには行きたくなかった。
でも、体が勝手に進んでいく。あの頃と同じように、意思とは無関係に運ばれていく……。やはり行き先を選ぶことはできないのだ………。
恐れていたとおりのものが視界の大半を塞いだ。
巨大な車体の後半部に背負った重厚な樽を、わざと威圧するようにこちらに向け、不気味な重低音とともにゆっくりと回転させているのだ。
そいつの名前なら知っている。名を知っているからといって、恐怖心は些かも失われはしないが、とにかく、“タンクローリー”ってやつだ。
すぐにも逃げだしたいほど怖いのに、視線が吸い付けられたように固定され、一瞬も目が離せなくなってしまった。
この状態にも馴染みがある。記憶にないほどの昔から、こうやって何度も致命的な失敗を繰り返してきたような気がする……。
だが今回はややニュアンスが異なっていた。もっとよく観察してやろうという、きわめて脆いが紛れもなき自制心の裏打ちがその凝視行為にはあったのだ。
回転する巨大タンクは、軸をこちらに向けているから球に見える。載せられている台座じたい3メートル以上の高さがあるから、その上極はビルほどの高みにある……。
では、何故それがこれほどの恐怖心を呼び起こすのか……?
とてつもない大きさが一因であることは確かだ。しかし、それだけではない。そんな巨大で重たい物が、自ら動いているからこそ恐ろしいのだ。現に、もっと大きなビルを見たことがあるが、動かないから全然こわくない。
ようやく辿りついたその答えを確かめようと、上方を見上げた。
意に反してビルはなかった。
真上には、並外れた巨木の梢が広がっていた。高さはおそらく2〜3キロメートルはあるだろう。とうぜん一枚一枚の葉など見分けられるはずもなく、枝々でさえ定かではない。
見とれるほどの雄大さだった。
歓喜が胸に浸透していった 素晴らしい場所に来ることができた……。
あの山に登ろう。
急ぐことなく着実なペースで前進していった。自分の足で踏みしめているという確かな感触が嬉しかった。そうとうの距離を歩いてきたはずなのに、まるで疲れを感じない。
幸いにして、誰にも会うことなく登ってきた。ここまで来ればもう大丈夫だろう。道ばたの草にテントウムシがとまっている……。
不快な機械音が後方から聞えてきた。まだ幾ぶん遠いものの、しだい次第にこちらへ近づいてくるようだ。振り返ると、石を投げれば届くほどの所で鋭く曲がった山道の、その片側を仕切る登り斜面の陰まで迫っている気配があった。キャタピラーをつけた重機に違いない。ブルドーザーか、ユンボか……? いや、想像裏に浮かぶのは、そんな複雑な外形ではない。側面のシルエットは逆さになった台形で、その上辺がやや後方に傾いている。その無様なまでに奇怪な形体の全周 ・両側を凶暴なキャッタピラーが巡っている……。それは、第一次世界大戦で使われていた古い型の戦車だった。
すぐ山奥へ逃げなければならない、と全身が総毛立ったが、追いつかれることは目に見えている。ここは隠れてやり過ごすしかない。
ところが、片側はかなり高いところまで灌木すら生えていない緩斜面なのだ。手近の林に辿り着く前に発見されてしまうだろう。身を隠す場所は……沢が流れている反対側だけだ!
完全に垂直の斜面の遙か下方に細々とした沢が蛇行していた。斜面、というか崖は砂利敷きになっており、背中を密着させて肘と足の裏を踏ん張りながら体を少しずつ押し出すと、ズルズルと滑るように下ることができた。だが、たぶん底まで降りることにはならないだろう……。
この状況はよく知っている。不自然に高い位置から見下ろすという図式……。
ふだんならば身をすくませているところだ。その恐怖感がないということは……かなり浅い領域まで浮上しているということだ。
まもなく目が覚めるだろう………。
2008. 10. 28 了


